by mish

言語学論集32号 論文要旨


安達 真弓「ベトナム語の遠称指示詞 kiakìa について」

ベトナム語の kìa は遠称指示詞 kia よりも遠いものを指すと言われる。しかしながら、kìakia よりも話し手や発話時点から離れたものを示すのはいくつかの時間表現の中に限られる。kìakia kìa という形式の後部要素としても現れるが、この形式も kia より遠くを指示しているわけではない。また、小説や戯曲の例においては、kìa は間投詞として用いられることが多い。よって、kìa は指示詞の kia と同列に扱うべきではない。


江畑 冬生「サハ語(ヤクート語)の後置型連体修飾と数の一致 」

サハ語はいわゆる「アルタイ型」の言語であり,修飾要素は被修飾要素に先行することを統語上の原則とする.本稿では,このようなサハ語の統語法に反し被修飾名詞に後続する連体修飾語について報告する.後置型連体修飾を行う語は6つあり,それらには話者による親近感を表すという意味的共通性がある.後置型連体修飾においては,修飾語は数において被修飾語と一致しなければならないという特異性を持つが,一方で格接辞については,通常の名詞句の場合と同じく句末にのみ付加される.


岩崎 加奈絵「ハワイ語における機能語‘ana」

東部ポリネシア諸語のひとつであるハワイ語において、‘anaという機能語が頻出する。一般にこれは名詞化辞と呼ばれ、用例の提示以外で取り扱われることは少ない要素である。だが、先行研究および民話資料を参照すると、そのような単純な定義と矛盾する用例が見られ、文法記述の具体性および体系性の観点からもより詳細に取り上げ、性質を提示すべきであることがわかる。

本稿ではその試みとして、‘ana が実際にどのような記述をされるべき要素であるか実例の観察より考察した。その結果、‘ana は名詞化辞ではなく先行する内容語の動作性を強調する要素であると定義する。ただし同時に、ポリネシア祖語研究の知見から、元来はやはり名詞化に準ずる機能を担っていたものが変化した結果であるとも予測している。

またその上で、言語状況に鑑み、ある言語要素の自然変化の断絶と、後の復活という経緯において、文法記述研究がどのような影響を与えうるものかについても注目すべきであると主張した。


熊切 拓「アラビア語チュニス方言のアスペクトを表示する前置詞—その統語的特徴と意味—」

本稿ではアラビア語チュニス方言の前置詞fiː-《~の中》を取り上げ,この前置詞が動詞のアスペクトに関わる特殊な用法について,その統語的特徴と意味的特徴に関して記述を行った。統語的特徴としては,このアスペクトを表示するfiː-が基本的には動詞未完了形と直接目的語との間に現れること,動詞文ではなく名詞文的な否定形式をとること,自動詞の補語となる前置詞句の前置詞と交代する場合があることなどを指摘した。またその意味的特徴には,動詞が瞬間的な動作を表す場合には反復相と習慣相を,それ以外の動詞では継続相と習慣相を表しうること,延長されたり,誇張されている行為を表現する場合があること,アスペクト的fiː-に続く名詞の性質や数によっても文意が変わることがあり,これらを踏まえて,アスペクト的fiː-のもっとも基本的な意味は継続相と反復相であると分析した。さらに,このアスペクト的fiː-の文法的範疇について考察を行い,前置詞としての働きも保持しながらも,アスペクト標識として文法化しつつある要素であると結論づけた。


三好 彰「『英和対訳袖珍辞書』の構成法の考察」

幕末に刊行された『英和対訳袖珍辞書』の底本は英蘭・蘭英辞書の Picard (1857) の英蘭部である。『英和対訳袖珍辞書』の邦訳語には Picard (1857) の与えているオランダ語訳をもとに邦訳したものと、オランダ語訳を介さないで英語から直接邦訳したものが混在している。前者のケースで英語の意味を解さないで邦訳したために誤訳になっている実例を示す。『英和対訳袖珍辞書』ではこのような誤訳が回避できているケースが多いので、編纂者が英語の知識を有していたと考えられる。

『英和対訳袖珍辞書』の見出し語には Picard (1857) に出ていないものがあり、Picard (1857) に出ているのに採録されていないものがある。これらは手稿から版下を作る際の実務上の工夫によるものである。


野田 高広「アスペクト形式『ている』の成立について」

本稿は、野田(2010)に対しての批判である福嶋(2011)への回答、および疑問点の提示を中心とする。『今昔物語集』のアスペクト形式「ている」「てあり」について議論した野田(2010)での「Vテイル」という表記に対する批判について回答した上で、文法化、関係節化などの問題の考察を通して「ている」のアスペクト形式としての成立について議論する。「てゐたり」から「ている」への変化が融合・再分析による段階的なプロセスとして捉えられること、および、具体的意味の抽象化を経つつも、両形式の間には現在の状態を表す構文としての同一性が認められることを示す。議論を通して、中世以前から見られる「てゐたり」を現代日本語の「ている」に連続するアスペクト形式として記述することの妥当性を主張する。


荻原 裕敏「トカラ語Bの『Avadāna写本』断片について」

本稿では文字やサイズなどといった断片の外形的特徴や言語特徴から同一の写本に属していたと推定されるドイツ所蔵の一群のトカラ語 B 断片を扱う。この写本のタイトルは現存していないが、筆者の研究によれば、これらの断片は本縁部に属する物語を伝えているため、本稿ではこの写本を『Avadāna 写本』と称する。ここでは特にこれまで未公表であった THT1165・THT1166・THT1249・THT1285・THT1507・THT1548・THT1680・THT1681・THT2976・THT2981・THT3054を中心に、これらの断片の転写と和訳を提示すると同時に、梵文並びに漢訳仏典を利用して断片の比定を行う。これらは[a] THT1165 + THT1548 及び THT1166 + THT2976、[b] THT1285 + THT1507 + THT1680 + THT2981.frg.1 + THT3054及びTHT1249 + THT1681 + THT2981.frg.6という四葉の folio に還元でき、[a]の物語は«Jyotiṣka-avadāna»に、[b]の物語は漢訳『大莊嚴論經』第 65章・『雜寶藏經』第 24 章「娑羅那比丘為惡生王所苦惱縁」及び蔵文«Karmaśataka»第 89 話«Sarana»に比定されるが、文体から見てこれらの物語に基づいたトカラ仏教の側の adaptation であると判断される。また、現在までのところ、筆者によって再構された『Avadāna 写本』は他言語中に一致する文献が確認されないため、トカラ仏教の側で独自に編纂されたか、或いは現在は失われたAvadāna 集成に基づいたものと考えられる。


大槻 知世「津軽方言の推量形式『ビョン』の意味変化に関する解釈」

本論文では、青森市津軽方言の推量形式の一つである「ビョン」が意味変化を経験したと思われることを報告し、その変化の仕組みを考察する。田附(2008)によると「ビョン」は「べ」と「オン」に由来する。「ビョン」はかつては町の女性が用いる上品なことばであった。しかし、現在は町や村、男女を問わず用いられ、断定的で押し付けがましく響くこともある。この変化を、「ビョン」の起源の一つと考えられる「オン」の変化によるものと考える。すなわち、「オン」はもともと女性語であり、断定を避け語調を和らげる働きをもっていたが、しだいに、意味の一部がパースペクティヴ化(Perspectivization)を受けた結果、むしろ断定的で一方的な伝達の形式に変化したと考えられる。


酒井 智宏「矛盾分と自然言語における規範性の源泉」

矛盾文X n’est pas X (「XはXでない」) は、単なる事実報告 (「問題の対象はXと呼ばれない」) として解釈される場合と、規範性言明 (「問題の対象はXと呼ばれるべき・ ・ではない」) として解釈される場合とがある。規範性を表す表現がないにもかかわらず、矛盾文が規範性言明としての解釈をもつのは、(i) 語Xの適用に不一致が生じ、(ii) その不一致が事実認識の不一致によるものではないとみなされ、(iii) 不一致を起こしている他者を話者が自らの言語共同体の成員(同胞)とみなし続けるときであり、かつそのときだけである。コンディヤックの「二つのまちがい」をめぐる議論をふまえると、事実認識に基づかない判断がくいちがう場面では、ただちに、当事者が属する言語共同体の存在が浮かびあがってくる。このとき、ウィトゲンシュタインの言う言語(によるコミュニケーション)の成立基盤を回復すべく、言語使用者たちが再び一つの言語体系に収束していこうとする運動が生じ、ルソーの「同胞と憐れみ」の原理により、言語使用の不一致を起こしている他者は「矯正されるべき他者」として立ち現れる。こうして、語の適用の不一致から自然言語の規範性が生じる過程を自然な一本道として理解することができる。「べし」という規範性概念は、「べし」という言語表現のないところから生じるのである。


SASAKI, Mitsuya “Patient-noun Formation in Classical Nahuatl”

本稿では、Stiebels (1999) が詳細に検討していなかった古典ナワトル語 (Classical Nahuatl) の被動者名詞派生に着目し、同現象が名詞化についての彼女の仮説にどのような影響を与えるかについて考察する。実際の被動者名詞の形成過程は、彼女の想定している過程よりやや複雑ではあるが規則的である。被動者名詞形成のパターンを詳しく観察すると、彼女がひとまとめに「項飽和」(argument saturation) と呼んでいるもののなかに 2 つの異なるレベルを区別する必要が出てくる。このような二段式の分析をとることで、彼女のモデルでは例外のようにみえるいくつかの事実が説明できる。ただし、この立場をとると、彼女の提示したデータは彼女の説の裏づけにはならないことになる。以上の議論を通して、本稿では、複統合的で述語の価数に敏感な言語が脱動詞化に際して動詞の項構造をいかに扱うかという問題についての実例を提供することを目指す。


高山 林太郎「岡山市方言の複合動詞のアクセント」

前部要素中または後部要素との境界に核がある複合動詞のアクセントを「前部アクセント」、全体として次末核または無核のものを「後部アクセント」と呼ぶことにする。東京では表出的な一部の語彙を除けば後部アクセントが支配的である。但し、前部要素が平板型なら後部アクセントは次末核型に、起伏型なら無核型になるという、所謂「山田の法則」が存在する。他方で、東京とよく似たアクセント体系を有する山陽地方では、前部要素の核を保存する前部アクセントとそうでない後部アクセントとが一定の割合で共存していて、地点によっては今後「山田の法則」が成立する可能性がある。東京の周辺地域の証拠から、東京でも古くは山陽地方のような複合動詞アクセントだったと考えられる。本稿は第一に、2 単位形から前部アクセントへの変化と前部アクセントから後部アクセントへの変化は、後部要素と前部要素の核と音調句の喪失であり、意味を原因とする音調句の一体化であると説明する。第二に、前部要素が平板型で後部要素との境界に核があるタイプが無核化できないのは、共時的には前部要素の核ではないからだと説明する。第三に、次末核化より無核化が著しく先行しなければ「山田の法則」は成立しないと指摘する。


石塚 政行「バスク語レクンベリ方言の絶対格とゼロ」

バスク語には名詞句に後接して格を標示する標識があるが、無標識の名詞句も用いられる。この無標識名詞句が絶対格という格を持ち、それはゼロで表示されているということを主張する。ゼロとは「何も標識が無いことによって何らかの意味が表されている」ということであり、義務的なカテゴリーに現れると考える。レクンベリ方言では、無標識名詞句と能格名詞句の機能が一部重なっているので、機能面からは無標識名詞句が独自の格を持っているかどうかは決定しがたい。しかし、名詞句(NP)の等位接続において格の無いNP の接続が許されないことから、無標識名詞句にも格があると考えるべきである。従って、格は義務的なカテゴリーであり、無標識 NP はゼロで表される絶対格を持つ。


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